ぶんつう屋

私の名前は「野良ねこ」
文通屋だ。

断っておくが、一応、姿かたちはホモ・サピエンス。

いわゆる「ヒト」。

しかしどうしてか、他人からは「どうにも人間らしくない」、

「新たなる生き物」、「おかしな奴」、

「意味不明」と怒られたりバカにされやすい。

また、それが理由でなかなか「世間の荒波に揉まれる人」に邪険にされてきた。

どうやら私は、間違ってニンゲンになったのだと思う。

おかげで今となってはすっかり、ヒトというものが恐ろしくなり、

私は「基本、ヒト嫌い」になった。

しかし、時々出会う、とっても素敵な人や生き物、

不思議な体験に生かされ、

何故か「ニンゲン社会の闇」と呼ばれる

「極端に恐ろしいこと」には巻き込まれていない。

森羅万象の采配に感謝。

野生動物にはニンゲン社会は難解すぎる。

仕方がないので、私はニンゲンをできるだけやめて

「生き物としての幸福追求」に邁進することにした。

ぶんつう=文通 とは

電子管理により、廃れつつある旧文明の連絡手段の一つ。

会うことが難しい相手だからこそ、心置きなく正直な本音を語ることのできる一種の精神解毒的娯楽。

旧知の人間には話せない悩みなども、肩書きも立場も年齢も気にせず語ること、意見交換することで自分自身の生活の質の向上をめざすものでもある。

言い換えるならば、素の自分、生き物として、人間としての自分の本質と向き合い、人生や心身における学びを深めるための学びの手段のひとつ。

相手と対等に真にわかりあえたと感じることができた場合、自分自身の存在意義や生きる目的などを再確認したり、自分にとっての生きる喜びが明確になることもある。

だが、会うことの叶いにくい相手だからこそ、自分自身の思い込みや傲慢さ、打たれ弱さや勘違いなどの、いわゆる「思いやりのなさ」「根気のなさ」などで長続きしないことがある。

一見、文通に勝ち負けは関係しない。だが、「理由なく手紙を出さなくなった」なら「人間として負け」という側面もある。

他人に向き合う心がけ、根気の乏しい人間であることを証明してしまうものであり、自分自身の人間としての軽さを証明してしまうものだからだ。

それは「試合で勝って、勝負で負ける」という言葉が示すように、人が定める常識規範外の「人間性」「生存倫理」そういったものの知識レベルによる本質的勝ち負けがどの分野にも存在するように、文通にもそれがあるというだけのことである。

だが、相手にとっての苦痛を強いる連絡文を根気よく出した場合は、それは単なる嫌がらせであり、文通とは異なるものであるから、相手が苦手とするものを事情を含めて正直に明確にされているのに、それを根気よくやり続けた場合は、思いやりのない手紙を送り続けた方が負けということになる。

ゆえに、文通は一種の自分試しといえる。

見ること、会うことが叶わない相手の存在をいかに尊重できるか。

文通とは相手の自由とは何かを想像力思考力のみで探り、互いの生存においての必須要件や心地よさを穏やかに確認しあうものである。

緩やかで穏やかなやりとりから、心のつながりとは何かを思考および実感し、自己存在の価値を確かめるための遊びと言える。

相手を重んじる古き良き日本人の精神を支えた文化であり、世界的にも愛され続け、電子的な便利さが普及した現代でも途絶えていない、「真の教養」を問われる文化である。